ラーマ3世は、父であるラーマ2世譲りの詩人で、叙事詩『 クン・チャーン=クン・ペーン 』の作詩にも関わりました。また、ラーマ3世の治世には戦乱が減ったため世の中の安定によってインフラの整備を精力的に行うことができました。そのためラーマ3世までを「チャクリー王朝の建設期」とされています。
なお正式名称の一部である ナンクラオ の名称はラーマ4世による諡号であって、生存中に一般的に用いられた正式名称(の一部)は チェーサダーボーディン。彼はラーマ3世はラーマ1世の統治下、その初孫としてバンコクの王宮に生まれました。幼名は タップ 。父親はイッサラスントーン親王(後のラーマ2世)で母親はリアム(後のクロムソムデットプラ・スラーライ)。
物心つく頃から祖父と父親に連れられ戦場につれられており、帝王学などはこのなかで身につけていったと考えれています。のちにラーマ1世が崩御し父親ののイッサラスントーンが王位につくと、タークシンの息子であるカサットラーヌチット親王が反乱を起こします。このときタップ親王はカサットラーヌチット親王を討伐する役を与えられ成功します。このとき、クロムムアン・チェーサダーボーディンという官名をもらっています。
タップ親王37才の時にラーマ2世は重病にかかり崩御してしまいます。王室典範によればモンクット親王(のちのラーマ4世)に王位継承権がありましたが、モンクットは僧侶でであり、学問に没頭していました。一方でタップは多くの公官庁での勤務を経験しており、ラーマ2世の晩年には事実上、王務を代行していました。このことから王位継承に関して王宮内で意見が分かれましたが、投票が行われタップが王位を継承することとなります。
即位に際して、ラーマ3世はそれまでラーマ1世を「最初の治世様」、ラーマ2世を「中期の治世様」と呼んでいたのを廃止し、それぞれに「プッタヨートファーチュラーローク」、「プッタルートラーナパーライ」という諡号を贈りました。これはラーマ3世が「最後の治世様」と呼ばれるおそれがあったためです。
また、即位の後に与えられた儀式的な名前は以下の通りです。ソムデットプラボーロマラーチャーティラートラーマーティボーディー・シーシントーンボーロママハーチャックラパッディラーチャーティボーディン・トーラニンタラーティラート・ラッタナーカーサパーソックラウォン・オンパラマーティベート・トリープーワネートラウォーラナーヨック・ディロッカラッタナラーチャチャートアーチャーワサイ・サムッタイカローモン・サコンチャックラワーラーティメン・スリイェンタラーティボーディン・ハリハリンタラーターダーティボーディー・シースウィブーン・クンアッカニット・リッティラーメースワラマハン・ボーロマタンミカラーティラート・デーチョーチャイ・プロムテーパーディテープナルボーディー・プーミントーンパラマティベート・ロークチェータウィスット・ラッタナモンクットプラテーサカター・マハープッターンクーン・ボーロマボーピット・プラプッタチャオユーフワ
27年間の即位の間、ラーマ2世は対中貿易で莫大な利益を収めました。ラーマ2世はこの利益を赤い袋に入れ、寝所に保管しました。このお金は「赤袋の金」とよばれ、ラーマ2世は「外国から攻撃され領土を失った場合、これで買い戻す」としてこの赤袋を大切にしました。
一方でラーマ3世は軍備の増強にも力を入れました。当時はビルマの コンバウン王朝 がイギリスの侵攻にあえいでいる最中であったため、この兵力を用いてベトナム勢力の進入をくい止めることは容易でした。同時にカンボジアの西部に侵攻しその領土をものにしています。またラオスのヴィエンチャン王国ではアヌウォン王がシャムに対して反旗を翻したのでこれを討伐したりもしています。
ラーマ3世は信心深い国王としても知られています。仏日には功徳のため貧困層の人民に食料を配給したり、動物を人間の手から解放したりしました(タイでよく行われる功徳)。また50以上の寺院を建立・修繕しました。
文人としても有名であり、ラーマ2世などと共にラーマ3世は『 クン・チャーン=クン・ペーン 』などの著作も行っています。 |