現在のタイ人は、自分たちの国家の設立を13世紀としています。伝承によると、1238年、タイ民族の指導者がスコータイでクメールの大君主を倒し、タイ王国を設立したとされています。その王国の衰退の後、 1350年に新しいタイの王国がチャオプラヤー川 沿いに成立しました。スコータイ王国と時を同じくしてタイ北部の チエンマイ から中国のシップソーンパンナーにかけて ラーンナータイ王国 が繁栄しました。
中国南部の雲南から南下してきたタイ族は、 13世紀ごろまでは強力なアンコール王朝の支配力の下にありました。ところが、アンコール王朝のジャヤーヴァルマン7世が崩御すると、タイ人が進出していた地域におけるアンコール王朝の支配力が次第に弱まり始めました。ラート(現在のペッチャブーン市)の小タイ族領主の ポークン・パームアンと、バーンヤーン(現在のナコーンタイ郡)の小タイ族領主の ポークン・バーンクラーンハーオ が共同でクメール人の勢力を追い出し、当時アンコール王朝の主要都市であったスコータイに小タイ族の王朝を建て、バーンクラーンハーオが王位に就き シーインタラーティット と称したのです(スコータイ王朝の成立)。ちなみにパームアンはそのとき摂政位に就いたと伝えられています。
スコータイ王朝は三代目ラームカムヘーン大王時代には黄金期を迎えました。パヤオ王国のガムムアン王、 ラーンナータイ王朝 のマンラーイ王と同名を結び、マレー半島全域から、ベンガル半島までを掌握しました。 ラームカムヘーン王は最初のタイ文字を定め、中国との貿易も行い、陶磁器製造技術を持ち込みました。 ラームカムへーン王の碑文には、「国民が病の時に利用できるように、カオルアン山とカオサッパヤー山に薬用植物園をお作りになった。」とあります。その山はスコータイ県のキリマート郡に現存しています。また、碑文には、「水に魚あり、田に稲あり、王は民に税を課さず、他人の富を欲しがらない~王宮の門には鐘が吊るされ、民が争いごとを起こしたときには、その鐘を鳴らすが良い、王はその訴えを聞き公平に裁くであろう。」とも記されており、当時の豊かさをうかがい知ることができます。
しかし ルータイ王時代までには各地で離反が相次小国になり、後に王位に就いたリタイ王はすでに仏法の研究を積極的に行い、三界論を著して、民衆の仏教理解を深めさせました。同時にタイ史上初めての一時的な仏教出家を果たし、これはすでに没落の兆候を示していたスコータイ王朝をリタイが仏法を持ってつなぎ止めようとしたことにあるとされています。リタイは結果的に王権思想の一つタンマラーチャー(ダルマラージャ)の思想を確立したのです。
当時の教育や文化の中心的役割は、テラワーダ仏教の寺院が担っていました。寺院の僧侶は薬用植物についても知識を持ち、庶民に薬用植物を使った治療をアドバイスしていたと考えられています。
このあたりでアユタヤ王朝 が台頭します。アユタヤ初代王・ ラーマーティボーディー1世 はスコータイ王朝に圧迫を加え始めたが、ラーマーティボーディーはスコータイを掌握することはしませんでした。サイルータイ王の時代にはパングワ王によって国を分離させられ、スコータイ王家はピッサヌローク を治めるのみになりました。その後細々と国は続いていましたが、マハータンマラーチャー4世 の時代に、跡継ぎが断絶し、スコータイ王家の親戚であったアユタヤ王朝のラーメースワン王子(後のボーロマトライローカナート王)が後を取る形で、アユタヤ王朝に吸収され、スコータイ王朝は消滅しました。 |