ラーマ7世 は、タイで最後の絶対君主で最初の立憲君主。本名はポッククラオ王。幼名が プラチャーティポックサックディデート というのでその一部を取って外国では プラチャーティポック王 とも言われています。
プラチャーティポックはバンコクの王宮で、ラーマ5世とパッチャリン妃の間に生まれました。 イギリスのイートン・カレッジ、ウールウィッチ士官学校、フランスのEcole Superieure de Guerreで学び、1924年の帰国後は短期間ながら軍人として働いていました。このときに軍人であったことをプラチャーティポックは王になった後も誇りにしていたようです。
本来であれば王になる予定ではありませんでしたが、ラーマ6世に成人した子供がいなかったため、ラーマ6世が崩御すると異母弟であった彼が急遽王位に就くことになりました。予期せぬ即位で、ラーマ6世が持っていた様な政治的基盤を築く暇がなかったため、政治的基盤が薄く、ラーマ7世は旧勢力の王族と、官僚の間で苦悶することとなりました。
ラーマ7世はラーマ6世時代に抱え込んだ負債の処理に即位後すぐに直面しました。この事態の打開を計るため5人からなる最高顧問会議を開き、全力で問題を解決しようとしましたが、アメリカが世界恐慌に見まわれたため、悪化していた国家財政がどん底まで悪化しました。そこで、王室費用を900万バーツから最終的に300万バーツに切りつめる「合理化」を行ったことでも有名です。ラーマ7世はついでに官僚の人事も「合理化」したため官僚、なかんずく民主的な雰囲気の中で教育されたフランス留学組官僚の怒りを買いました。この合理化に対する危機感は、後に人民党を生み出しました。
ラーマ7世は1931年眼病手術のためアメリカを訪れた時から、議会制導入を考えるようになりました。そのための憲法草案を作成し、いざ発表する段階になると、最高顧問会議のメンバーを中心とする王族の猛烈な反対に遭い断念しました。これに業を煮やしたパホン大佐、 ピブーンソンクラーム、 プリーディー・パノムヨン率いる人民党が、ラーマ7世がフワヒンへ療養に出かけている最中に立憲革命を起こし、 1932年ラーマ7世に憲法を発布させました。これにより、ラーマ5世以来続いた絶対王政に終止符が打たれたのです。
しかし、新政府は王政を廃止せず、代わりに国王の承認を権力のよりどころとする立憲君主制を導入したため、ラーマ7世は翌年、目の病気を理由にイギリスへ逃亡しました。国王の承認をよりどころにしていた新政府は、国王の承認を取り付けるためイギリスまで行かねばならず、事務の円滑な処理が出来なかったので、ラーマ7世にタイへ戻るように頼みましたが、ラーマ7世は拒否し続けました。その後、いつまで経っても民主制に移行しようとしないパホン政権に抗議するためにラーマ7世は1935年自らの意志で退位しました。そのままイギリスで不遇なまま過ごしましたが、1941年に死亡しました。遺骨は1949年にタイへ帰還しました。 |