アユタヤ王朝 (1351年 - 1767年)は現タイ の中部を中心に展開したタイ族 による王朝。創設者はラーマーティボディー1世(ウートーン王)。
タイに起こった各時代の王朝同様、中国とインド、ヨーロッパ方面を結ぶ中間に位置する地の利を生かし、貿易が国の富として重要でした。アユタヤ王朝でも王家を中心として、独占的な貿易が行われました。主に中国への米の輸出で国力を付けたほか、日本、琉球などの東アジア国家、東南アジア島嶼部、アラブ・ペルシア方面や西洋と活発に貿易を行い、莫大な富を蓄えました。この富を背景にアユタヤでは当時繁栄していたクメール文化を吸収しつつ、中国、ヨーロッパ、ペルシャなどの文化の影響を受けた独自の華やかな文化が開花しました。
ウートーン王の出身については、歴史資料上はっきりしていません。そのためいくつかの説が提出されてきました。なかには、疫病(おそらくは コレラ )で見捨てたチエンセーンから移住してきたといった説や、スパンブリー出身、 ロッブリー出身説などがあります。いずれにしろ、アユタヤ朝創設当時の、近隣の状況は、北にスコータイ朝 が隣接していたにもかかわらず、アユタヤを創設したタイ中部は、スコータイ朝の領土でなかったこと、さらに、アユタヤ時代が始まる直前までの古い遺跡がタイ中部で見つかっていることから、歴史資料としてまだ見つかっていない王朝がすでに存在していたことが窺えます。あるいは、小国が並立していたというようなことも考えられます。例えば、この空白期(アユタヤ朝創設以前のタイ中部)にロッブリーやペッチャブリーはスコータイ朝とは別に中国に朝貢しています。したがって、ウートーン王の出身もおそらくタイ中部のある国の王家からだと考えるのが妥当であろうと考えられています。ちなみに、ウートーンというのは金のゆりかごを意味し、伝承の中でタイ中部でこの名を持つ王は多い。つまり、タイ中部の名づけの習慣でもあります。
ウートーン王は、王朝年代記ではラーマーティボーディーというなで記述されています。王が即位するにあたり、スパンナプーム王家(スパンブリー)の協力が不可欠であったことは、後の対スコータイ政策で顕著となります。
ラーマーティボーディー(1世)は国内統一のため、セイロンから仏僧を招いて 上座部仏教 (小乗仏教)を国家の公式な宗教とするとともに、ヒンドゥーの法典である ダルマシャスートラ やタイでの慣習を元に(三印法典)を整備しました。この三印法典は近代的な法典が整備される 19世紀 までタイの基本法典として機能することになります。
14世紀末までにはアユタヤ王朝は東南アジア最大の勢力として見なされるようになりますが、完全に東南アジア地域を圧倒するほどの人口に欠けていました。このため、当時衰退しつつあったクメール王朝へ勢力を伸ばしつつあったベトナム勢力に対抗するため、ラーマーティボーディーは晩年 アンコール (クメール人の都市)を攻撃しアユタヤの図版に加えました( 1362年 )。しかし、アユタヤはアンコールの完全な掌握を遂行することはできず、スコータイ王国との関係は、スコータイがアユタヤに朝貢する形となりましたが、その後、100年かかって、アユタヤ朝がスコータイ朝を併合し、スコータイ朝は消滅することになります。しかしこの過程で、アユタヤに新たに興ったスパンナプーム王家とスコータイの王家との姻戚関係が強くなり、その後もスコータイ王家は存続したと考えられます。
諸国との貿易も盛んで中国人、マレー人、ポルトガル人、そして日本人町などの居住区が存在していました。日本人町には、800~3000人の日本人がいたと言われていますが、1603年から1635年までの鎖国が始まるまでの32年間で、徳川幕府は御朱印船で55回も渡航し、タイとの貿易を進めました。山田長政が日本人義勇隊長として活躍したのは有名な話です。アユタヤ王朝の医学は、仏教哲学に沿ったものから呪術や占星術に至るさまざまなものが混在していたと考えられています。そしてさまざまな知識が区分けされました。医学の分野では、マッサージ医師であるモーヌアッド局、薬剤師、小児科医、王家の医師であるモールアンなどがあったようです。
1659年~1661年までのナライ王が統治をした期間には、色々な国の医師による医学書がまとめられ、王に献上されました。「ナライ王の医学書」と呼ばれていますが、ここには81種類の薬の処方が書かれており、庶民のために薬用植物を売る店も多く存在していました。当時のフランス政府渉外官であったラ・ルベールは、次のように報告をしています。「タイ人は病気になっても何もせず、ただマッサージをするだけである。そしてたいていの場合治ってしまう。」この言葉から、タイの伝統医学の中でもタイマッサージが広く普及していたことがうかがえます。宮廷でも医療の一環として行われていたようで、アユタヤ朝時代の文献「ナライ王の医学書」には、マッサージが宮廷で治療法として用いられたことが記録されています。宮廷の中にはマッサージ師という職位があり、比較的高い地位であったようです。
15世紀 にはマレー半島のマラッカ王国がアユタヤの悩みの種となります。マレー半島ではマラッカやタンブラリンガ以南のマレー半島諸都市が15世紀早くからイスラム教に改宗するようになり、独立を宣言するようになったためです。結果的にアユタヤはマレー半島南部を失いますが、マレー半島北部を維持し高級品を求めてやってきた中国出身の商人により国内の経済は潤うことになります。
一方、西のビルマは地域の覇権を競い、16世紀ごろから執拗にアユタヤを攻撃を繰り返しており、アユタヤはこれに頭を悩まされることになります。ビルマのタウングー王朝 の君主、 バインナウンは 1569年にアユタヤ王、マヒントラーティラートを下していますが、ナレースワン によってアユタヤは再興されました。この後、ビルマが内乱に見舞われたことから一時ビルマの侵攻は収まったように思われましたが、コンバウン王朝が興ってから再びアユタヤはビルマの侵略に悩まされます。 1767年にはシンビューシンによって アユタヤ王朝 が滅亡します。このときアユタヤの町は徹底的に破壊されていたため、ビルマ軍が退却した後、新たに王となったタークシンはアユタヤ再興をあきらめ トンブリーへと遷都します。 |